雑然としたもの

2007年03月04日

脱出!

スパムがすんごいことになってるので移転しますです。
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投稿者 野ざらし : 02:28 | コメント (0)

2007年03月01日

ボランティア?嫌いですけど。

とあるところに出した原稿です。保存がてらにここにあげときます。
基本的には昔の原稿を改訂増補したものです、はい。 

大学で「カンボジアの恵まれない人々を救う」と銘打った団体に出会ったことがある。クラスメートも何人か入っていた。彼らを見て私は驚いた。「自分たちのしてることは偽善じゃないのか」という疑問は、そこに微塵も無いようだった。偽善じゃないかという指摘をすると、じゃあ偽善とは何で、偽善らしさのない善行なんて果たして可能なのかっていう地雷へと到達するので、そこは指摘しなかったけれど。
 ただ、ボランティアという行為に何らかのきな臭さを感じている人はいるようで、この話をしたら共感してくれた人は少なからずいた。ボランティアを真っ向から批判するのは道徳的に白い目で見られるから黙っていたのが、私の話によって引き出されたようだった。私と何人かの友人が感じているきな臭さの根っこを掘り当てることが、自分の中の問題として今も引っかかっている。考えてきたことを記していきたい。

 外国の恵まれない人を救うというのは、名も知らない人への善意として高く評価される。自分の身の回りにいる人に善意を払う以上の行為として、評価される。ここで思うのは、名も知らない人の方にこそ善意を払う、いや、むしろ名も知らない人にでなければ善意を払えない人は意外と多いんじゃないかということだ。何故か。善意を拒絶される心配が無いからだ。
 貧困に喘ぐ人々にとっては、与えられるものを選び取る以外に選択の余地は無い。与えられたものを受け取らなければ、端的に死ぬ。少なくとも、今より状況が良くなる見込みは無い。そこでは「与える者」は、常に「受け取る者」が受諾することが前提になっている。「受け取る者」に選択の自由はあるにせよ、それは「受け取る者」によって正しい選択がなされるという前提のことであり、その前提は「与える者」によって占領されているような印象を受ける。予定調和化している、システム化していると言ってもいいかも知れない。「与える」とは、もちろん物質的なものだけでなく、精神的なものも含んでいる。当然、善意もそうだ。このシステムの中にいると、善意が必ず実るのだ。それはとても甘美なことだろう。

 さらに考えさせられるのは、クラスメートの「カンボジアの子供たちの笑顔を見ていると、苦労が報われる」という発言である。確かにそうなのかも知れない。ただ、助けられた側にとってはどうなのか。
 (私がひねくれているからかも知れないが)私が救われる立場だったらこう思う。あなた達は私の生活を一変させてくれた。このお礼をどうにかして返したいと思うが、あなた方は私の笑顔を見るだけで十分だと言う。せめてものお礼として、私はあなた達の前では(たとえ辛いことがあろうとも)笑っていなければならない。…実は私たちが払っている対価は、彼らが払ってくれた対価よりも、最終的には多くなるのではないか?彼らは私たちの返礼を(笑顔という)抽象的な次元に落とし込むことで、一生かかっても払えないものへと変貌させていないか?
 こんな感じである。ボランティアの精神、無償の贈与の精神が、結果として契約の形式よりも精神的に強い拘束力を持つ可能性を、私のクラスメートはどの程度自覚していただろうか。無償の行為は道徳的に優れているかも知れないが、それが道徳的に優れているがゆえに、混乱をもたらしかねないことを、自らの道徳性に溺れることなく見ることは出来ていたのだろうか。

 最も私に切迫した問題としてあらわれ、またクラスメートに対して複雑な思いを感じるのは、私の父親がⅠ型糖尿病という難病であるという事実である。言いたいことは、カンボジアの人よりも俺の父親をなんとかしてくれということではなく、近くにいる人だって何らかの悩みや問題をもっているはずで、それに向き合わないでカンボジアの人を救おうとすることは、眼前の事実から目をそらすための口実なのではないか、ということだ。
 確かに自分の近くにいる人の悩みに携わるということは、その人と決裂する可能性を秘めている。悩みを共に考えて、何か行動に移してみることは、悩んでいる当人がそれを余計なお節介と思ってしまえば、その通りになってしまう。例え善意からの行動であっても、である。例えるなら、良かれと思ってする行為は、善意の破片でしかない。それは組み上げる者(良かれと思ってする行為を受け取る側)によっては善意になるが、それ以外のものにもなりうる。当然ながら偽善にも。

 機会があるなら、卒業していくクラスメートにもう一度問いたい。私みたいに考えてる人が「助けられる側」にいたなら、あなたはどうしますか、と。それとも、私の考えこそが実行力に欠ける人の言い訳でしかないのだろうか。

投稿者 野ざらし : 00:26 | コメント (0)