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2006年03月31日
心脳問題(朝日出版社)
脳が分かれば心が分かるか?と聞かれると、当然そうであるというのが現代の一般的な見解だろう。
と言うより、それを前提として科学は進んでいる。たとえ、哲学的な視点から見れば、心と脳の関係に疑問点があるとしても。
だから、この本の中では問いを一歩踏み込ませて、「脳が分かれば心が分かる」という前提で社会が進んでいったらどうなるか?という視点からも論じている。観念だけの話に終止しなかったのがこの本の素晴らしいところだと思う。知り合いが書かれた本なので、こんな横柄に感想を言うのはとってもとっても気が引けるのだけれど。
個人的に思ったのは、心の存在を「科学的に」証明するためには脳に頼るしかない(という前提に基づいている)以上、「脳が分かれば心が分かるか?」という問いは一定の権力を持ちかねない、ということ。
つまり、逆から言えば、脳をいくら調べても存在が証明できないような心の一部分があったとしても、それは「脳が分かれば心が分かる」という命題の反例になるよりは、恐らく「それは心ではない」という結論をされてしまうだろう、ということである。
脳を調べても心が解明される訳ではない、ということになってしまうと、脳科学を根本から見直さないといけない。それよりは、反例を反例をして認めない方が「安全だ」ということになると思う。
このことが何を意味しているかというと、脳の側、科学の側から心の概念を作っていく可能性がある、ということである。
ここまで来ると、「脳が分かれば心が分かる」ではなく、「脳が規定するのが心である」ということになってしまう。心という概念がもともと主観的で曖昧なものだということも、こういう状況を可能にする原因なのだろう。
ただ心というのは主観的に体感されることが一番の本質なのであって、客観的に脳を見て心の状態をラベリングするというのは、何か違和感を感じる。その違和感こそが心脳問題の核心であって、この本の中の「一種の知的な気分」なのだが。
結局のところ、現代で「脳が分かれば心が分かるか?」という問いを発することの意義は、脳という客観的なものと、心という主観的なものの間のクレバスがどれだけ大きいかを、そのつど確認させることにあるのだろう。広大な隙間があるにも関わらず、人間は(その隙間を感知しなくても生活を営んでいけるために)往々にしてその存在を忘れてしまうという意味では、十分に意味のある問いだと思う。
2006年03月29日
昔踏んだ薄氷
いつ学校が始まるのか分からないので、掲示板を見に本郷へ。6日からだそうで、四月に入ってからも結構休ませてくれることが判明。
折角本郷まで来たので、キャンパス内の博物館で、骨やらウニやらを見る。
参りました。完全にウニをなめてました!
トゲがあるウニどもなんかほんの一部しかいなくて、ほとんどがフジツボの巨大化したバージョンというか、どう考えてもやすやすとは食えないやつらばっか。「スカシカシパン」とか、いかにも美味そうなのも展示されてたけど、どう見ても菓子パンとはほど遠かった。分厚い苔にしか見えん。
あ、でも生きてるスカシカシパンは確かに美味そうだわ。ドラ焼きの代わりになりそう。
ついでに入学試験の成績開示を請求しに行く。
結果を見たけど、いやいやいやいや、あと5点少なかったら落ちてるじゃん!あぶねー。最低点ではなかったことが救いか。
誰も教えてくれないのをいいことに平然と歩いてきたけど、実はすぐ横は断崖絶壁だったような感覚。
ま、まぁでも、文系に限った話をすれば、入学時の成績と入学後の成績に相関関係は無いらしいからね!ほんとだかんね!
交付された成績の紙は、野ざらしの最高機密として丁重に埋葬しようと思います。鳥葬と称して不忍池の鴨に食わせることも一瞬マジで考えた。
あぁ、また暫く本の感想を書いてない!近々書こう、とネットに書くことで自分にプレッシャーを与える作戦。作戦が自分にばれている以上、効果のほどは期待出来ないのだが。
2006年03月28日
巨星が一つ落ちたとさ
スタニスワフ・レムが亡くなったそうだ。残念でならない。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0328/001.html
最近は小説書いてなかったから、読者に対するアウトプットという点では変わらないと言えば変わらないのだけど、もしかしたら新作出るかも…という一縷の期待すら断ち切られてしまった。
毎年のようにノーベル文学賞の候補に挙がっていたのに、結局受賞することのないまま逝ってしまった。これだけでも今後のレムの名声にとっては、大きな損失だと思う。
これで今年のノーベル文学賞を村上春樹が受賞してしまった日には(最近のノーベル文学賞受賞者はカフカ賞という賞から出ていて、そのカフカ賞の今年の受賞者が村上春樹だったため、有力候補なのだそうだ)、もうノーベル文学賞なんか決定的に信じられない!
いや、春樹が悪いというのではなくて、レムが凄すぎるわけで。あんなに射程の広い作品を書く人は、そうそう現れない。
でも、これをきっかけにレムの作品が復刊してくれるといいな、とか期待している自分もいたりする。
なにはともあれ、読んだことない人は『ソラリス』あたりを読んでみるべし。映画もあるけど、タルコフスキー大先生が、非常に外部への広がりに乏しい矮小な解釈をしてくれたので、本から入った方が絶対によかとです。
2006年03月27日
買った本 2006年3月26日 と休日出動高速回転
クオリア入門 茂木健一郎著 ちくま学芸文庫 490円
ヘルメスの音楽 浅田彰著ちくま学芸文庫 400円
駒込の平和堂書店という古本屋にて。
何で駒込にいたかというと、TOEICの会場が駒込だったから。
で、肝心の出来は、リスニングがミリオネアの1000万円に挑戦する問題のごとくちんぷんかんぷんだったので、思わずライフラインを使いたくなったけど、「不正行為をすると今後テストを受けさせないよ」みたいなことが書かれていたので自重。空虚な気持ちでマークを塗りつぶす。
その代わりにリーディングは、生まれて初めて時間内に最後まで完答できた!偉いぞ俺。自分で自分の頭をシャクティーパット。
その後は、とある会の二次会。予備校の同窓会みたいな感じ。主催者としては、この会を今年でひとまずリセットしたいとのこと。寝耳に水とはこのこと。さすがの俺もびびった。夜中にちょこっと物音がしただけでびびるんだけど。
周りがシリアスなのか世間話をしたいのかよく分からないムードになったのと、自分の考えをまとめた方がいいと思ったので退散。
悔やまれることと言えば、話したい人と話す時間を存分に持てなかったのと、腹が減っていたのにくらげとエビチリちょびっとしか食べられずにビールを流し込んだこと。
2006年03月24日
夢判断なんて信じない
ほとんど見た夢を覚えていない俺が、珍しいことに夢を覚えていた。
小会議室みたいな所で、誰か偉い人に「じゃがいもは、みんながおいしく食べるために品種改良していったんだけど、さつまいもはみんなが大きさを競うために品種改良していったんだよ」と言われる夢。
テレビをつけっ放しで寝て、テレビの音声か夢の中なのかが分からなくなった、ということがよくあるので、念のため日本いも類研究会のページで調べてみるも、該当する文は見当たらず。
夢とは脈絡の無いものだということを差し引いても、何ゆえにこんな夢を見たのか皆目見当がつかない。別にじゃがいももさつまいもも、食べたいと思ってない。
百歩譲って「おさつどきっ」を常時食べたがっていることは認めるが、それを認めたとしてもどっから上記のような理屈がひねり出されてきたのか。まさに夢のようだ。脳こえぇ。
今日の日記はほんとに日記っぽい。
2006年03月22日
コレガ、ニホンノタマシイデス
東京都現代美術館のホムペをなんとなく見てたらご対面してしまったのだけど、天明屋尚はすげぇ。
アイディアを実現させるだけの、というよりもそれ以上を引き出してしまうほどの圧倒的な画力。
本人の肉筆で彩色した実物を見ても、CG彩色だと勘違いしてしまいそう。
何よりも、この名前が本名だってのが一番すげぇ。

製作過程を撮ったドキュメンタリー映画が今年の夏に公開されるらしい。こりゃ観に行くしかないっす。
彼の絵画が見られる展覧会は、東京都現代美術館で今週までの開催らしいのだが、多忙につき行けず。うぅ、TOEICが憎い。
そして東京都現代美術館では、展覧会ガイドをポッドキャスティングしてるらしい!それは思いつかなんだ。便利なのでどんどんやってほしい。
デジタルデバイドの進行が甚だしくなる気もするけど。あと展覧会ガイドって、主にお年寄りに需要があった気がするけど。
2006年03月20日
買った本 2006年3月20日 と春めくフェアレディ
MiND 心の哲学 ジョン・サール著 朝日出版社 1800円
池袋ジュンク堂にて。訳者がmixiでお友達だったりする。何度か会う機会があったにもかかわらず、すれ違いを繰り返して結局今まで会えずじまいなのだが、とっても会ってみたいぞ吉川さん。POPも訳者自ら書くという凝りよう。

今日は久々に友達と会ってだべってきた。今年大学に受かったそうだ。まことにまことにめでたい。
なんだか春めいていた様子で羨ましいというか、こっちもぽわーんとしてしまった。俺が春めいても春眠暁を覚えなくなるだけなので、あまり利にならないのだが。通学用の鞄とか買っちゃってる様子がなんとも初々しかった。
ちなみに野ざらしは鞄の中身を詰め替えるのが面倒になったので、最終的にトラベルバッグを買ってしまいました。通勤ラッシュの車内でかさばって大迷惑。
とりあえず、女の命は肌だ!ということで、敏感肌の野ざらしもリアルに愛用しているヒアルロン酸を入学祝いにプレゼントしてあげた。
化粧である程度カバーできるとは言え、やっぱ男は肌もチェックしているというのが、俺自身と周りの友達で一致した見解である。
それにしても、肌に限らず、男は加点法で評価されやすいのに対して、女は減点法で評価されやすい感じがするのは気のせいなのだろうか。
と言うよりも、同性を加点法で、異性を減点法で評価する傾向がある、と言った方が適当かも知れない。
つまり、野ざらしが女なら、女性を加点法で、男性を減点法で評価しやすい、ということ。女性が男性を値踏みするのは決まって女同士の時だから、野ざらしがそういう現場に出くわしたことは幸か不幸か無いのだが。
異性の評価の方が同性のそれよりも重大だから、評価の方法自体を厳しくする傾向があるともとれますな。
「傾向がある」って書くと、かなりの誤差が許されるので便利。
2006年03月19日
OKの意味は大丈夫です
土曜日に東京から帰ってきた。実家に帰ってから、一週間ずっと外出しないという快挙を成し遂げた俺に怖いものは何も無い。でも太陽の光に恐れを抱きつつある自分がいたりする。あと三月の中旬なのに平気で雪が積もる福島も恐ろしい。要はまだまだ怖いものだらけ。
実家から東京に戻るときの新幹線内での一コマ。
座った席が車両の最後尾だったため、座席の後部に微妙なデッドスペースが存在していた。
背もたれを下げてゆったりしていると、外国人と日本人数人がいそいそとアタッシュケースをデッドスペースに置き始めた。
迷惑をかけないように背もたれを上げると、外国人が「O.K., Keep your seat」と。俺は「No problem」と返した。
数回、オーケーとノープロブレムのやりとりを繰り返していると、後ろからおもむろに日本人が、こともあろうに、
「大丈夫です、って言ってます」
と言い放った。
思わず自分の耳を疑った。もしかしてこのジャップは、「O.K.」を訳したのか?いやいや、そんなことはあるまい、と思っていると、もう一言、
「大丈夫、ってこの人は言ってるんですよ」
きた。確定。こいつは俺が「O.K.」を知らないと思っている。もしくは馬鹿にされてる。
さすがの俺も切れそうになったが、訳したジャップはそそくさと前方に消えてしまった。仕方なく隣に座った外国人とサッカーの雑誌をネタに微妙なコミュニケーションをとったが、ジャップ前の座席からいちいち通訳をしたがっていた。
やめれ!俺の英語が下手なのは分かってるし、お前の翻訳能力もトイレの芳香剤のごとく堪能したから、やめれ!
結論。過剰な親切をすると、逆に自分自身の品位を貶めます。
2006年03月09日
文明から離れる前前夜
乙一の『平面いぬ。』読了。
それほどサプライズのある物語が書かれているわけではなかったが、かと言って誰にでも書ける話でもないという、その微妙な隙間に乙一がいた。
「展開が読める」ということと「俺でも書ける」というのは、近しい関係にあるようで、あくまでも別次元での話であって、乙一のは前者であり後者ではない。その分ドキドキせずにページをめくれるというはある。
かるーく読めて、後味すっきりみたいな本を読むのは久々だったので、新鮮と言えば新鮮だった。が、かるーく読めてしまうがゆえに、実は結構バリエーション豊かな文章をしたためていることにはなかなか気付かれない作家なのではないだろうか、乙一という人は。そうだとしたら報われないなぁ。
巻末の解説に「持ってないゲームの攻略本を見て妄想した」と書いてあったが、実は俺もやっていたことなので、軽く親近感を覚えずにはいられなかった。同じことをしていた割に、乙一のような文才には恵まれなかったが。
ちくま学芸文庫を買った時に応募券がついていたので、喜び勇んで応募しておいた『ちくま文庫解説傑作集』が届いた。

解説だけで楽しめてしまう文章は、最早解説と呼べるのかという疑問は湧かないでもない。
良い解説になればなるほど、一般的な意味での解説ではなくなってしまうという逆説!
明後日から実家に帰って山ごもりするつもりでいるのだが、伸ばしっぱなしの髪で帰ると、近所の謎めいた床屋に強制収容されて刈り上げにされかねないので、大人しく東京で切ることにした。
予約して分かったのだが、なんと去年の7月から切ってないらしい。就活してないのがバレバレだというのは置いといて、ここまで切らないのは新記録かも知れない。
若干、禁断の「ロン毛」の領域に入ってしまっている自分。きもい。
2006年03月06日
好意の質流れ
突然、姉がritmo latinoの時計を進呈してきた。曰く「オメガしか使わないから」という。
俺は不用品の再利用業者ではないのだが、と思いつつも、自分では時計に諭吉を何体も生け贄にしないのは目に見えているので、ありがたくもらっておく。
何の気なしに「もらい物?」と聞いたら、肯定しつつも何かお茶を濁すような発言。姉の彼氏を知っている限り挙げていったが、その方々からの貢物ではないと言う。ただ、ぼしょぼしょ言っていた中で聞き取れたのは、「上司」というキーワード。
これ以上深く追及することに命の危険を覚えたので、納得した素振りを見せたが、脳内でデスノートのL張りに様々な可能性を巡らす。
結果、
①不倫もしくは浮気
②一方的に姉を好いている上司からの貢物
③上司がとっても金持ちで、姉以外にも時計クラスのプレゼントを振舞っている
の三択に絞られた。③はほぼ無い。とすると①か②なわけだ。
真偽のほどは知るべくも無い、というか①だった時に「お前は知りすぎた」と言って口封じされかねないから知ろうとしないのだが、どっちにしても上司から姉への好き好きベクトルが俺に辿り着いてることに変わりはなく、時計がやや呪物めいて見えてくる。
姉の上司さん、あなたの好意は僕が受け取りました。いい迷惑だろう。
ここから追記。
時計の保証書を見せてもらったら、購入日時が1995年と記されていた。古っ。
①や②の上司が、そんなに昔のものを贈るはずもない。ということは、
④上司が要らなくなったものを姉にあげた
ということになる。そして姉も要らなくなったので、最終的に俺に行き着く。さながら不要物の終着駅のよう。
2006年03月03日
買った本 2006年3月3日 とロリータの生き様
脳と仮想 茂木健一郎著 新潮社 800円
世界文学全集 カフカ 学研 105円
近所のブックオフにて。全集に収録されてたのは『変身』と『城』。『審判』は持ってるので、これでカフカの三部作が揃ったことに。ありがとう学研。
数日前、スーパーで飲み物を買おうとしたら、前に並んでいる人がロリータファッションだった。
それだけならそこは大都会東京、俺が田舎物でも既に見慣れた光景なのだが、買い物かごに入っていたものが、思い出せる限りで挙げると、明太子、秋刀魚、にら。ロリータファッションの非現実感と、かごの中身のものっすごい家庭的な感じに少しくらっときた。夢か現か。
ロリータを徹底するなら舌平目のムニエル辺りが妥当なのではないだろうか。というより買ってる本人は服装と購入物にギャップを感じていないのだろうか。
そのギャップも含めて一つのキャラクターだと考えて外部にアピールしてるのなら、それはもうお手上げなのだが。
ワタリウムでやってる写真展のメンツが良すぎ。よほどのことが無い限り行きたい。
ダイアン・アーバスのなんとも言えない気持ち悪さを湛えた写真を一度生で見てみたかったから、これはとってもいい機会。ミーハーっぽいと言われれば否定しないけど。実物もやっぱりうすら気持ち悪いんだろうなぁ。

2006年03月01日
ソラリスの陽のもとに(ハヤカワSF文庫)
人間は、相手(人間に限らない)を理解するとき、人間がつじつまを合わせられるように相手の行動を解釈する。いや、せざるを得ない。それが人間の限界だからだ。
おおまかに言うと、例えば「犬の行動を理解する」と言うとき、犬の行動を「尻尾を振る=嬉しい」などのように解釈して体系を作り、それで不都合が起きなかったら「相手を理解した」と言っていい、ということになるのだろうと思う。
この作品では、ちょうど人間の理解の仕方をすり抜けていくような生き物(かどうかも厳密には分からない)が出てくる。
形はスライム状だから、人間にとっては生物とも非生物ともとれるし、相手からこちらに「直接」コミュニケーションをとることはない。
しかもこの物体には、相手の行動を体系づける、つまり理論を作る上で重要な「帰納」が適用出来ない。二度同じ行動をすることが稀だからだ。
そしてこの「海」と呼ばれる奇妙な物体は、惑星ソラリスに来訪した人間の記憶を読み取り、それぞれの恋人の姿を作る。
もし「海」が生き物ではないならば、恋人の似姿もまた生物ではない。
しかし、それは「海」が生き物であるかどうかが決定できるという前提で言える話であって、「海」を宙ぶらりんな立場に置かざるを得ない以上、恋人の似姿もまた、あいまいな立場にいる。
それ以上に、似姿の在りようがあまりにもリアリティがあり、「これは似姿なんかじゃなくて本物の恋人だ」と信じたくなるから、それだけより一層、似姿が「海」が産み出したものだという逆のベクトルも強くなり、ジレンマが生み出されるのだろう。
この作品のすごいところは、「自らの理解の範疇を揺さぶるようなものに出会った時の驚き」とか、「未知の物体の驚くべき生態」みたいなところに留まらず、遭遇した人間の内的な問題、もっと言ってしまえば倫理的な問題までを描ききったところにあると思う。
実際、生物かどうか分からず、コミュニケーションもとれないように見える物を、自分の中にどう位置づけるか、という問題は、自分が何を生物と見なしているかという問いと深く関わっている。
そしてその問いは、生物かどうか定かでないもの、自らの中に確定した位置を持たせられないものにどういう態度をとる「べき」か、という規範の問題を含んでいる。
そこを抉り出したのが、この作品を傑作たらしめていると思う。
ほんとに機微が細かく描かれていて、掛け値なしに素晴らしいので、これ読んでる人に是非読んでもらいたい逸品。